こんにちは、コンパイダーです。
本日は、物議をかもしたYouTuber「ゆたぼん」君騒動の
「学校に行かなくてもいいか」問題についての記事です。
世の中の「炎上」には2種類がある。
前者は、犯罪行為であったり、バイト先で度が過ぎた悪ふざけをする
大学生などに対して、「制裁」として非難が集中すること。
もう一つは、ある尖ったメッセージに対して、否定的な意見が殺到する
「物議」が巻き起こるディベート性を帯びたもの。
前者の炎上は正直「ただのバカ」だと思うが、
後者の炎上はバカには起こせない。
方向性はどうあれ、思考を深ぼった結果の炎上であり、
それはディベート材料の提供でもあるからだ。
著名人だと、イケダハヤト氏やはあちゅう氏などがこれらを
得意領域にしていると思う。
そして近頃、そんな物議系炎上界隈に新しいヒーローが誕生した。
世間を騒がす小学生YouTuber、「ゆたぼん」こと中村 逞珂(なかむらゆたか)君である。
ゆたぼん/ 中村 逞珂 君とは
ゆたぼんくんとは何者なのか。
一言でいうと、職業:少年革命家の、不登校小学生YouTuberだ。
これ以上の説明がいるのか不明だが、これだけだと
何を言っているのかサッパリなので要点をまとめておく。
- 2017年、通っていた小学校で宿題をせず先生と揉める
- それがきっかけで、周りの子供たちがロボットに見える
- 学校に行かなくなり、代わりに「不登校は不幸じゃない」などの
メッセージを発信するようになる - ネットやテレビで動画が取り上げられ、物議を醸す
- 夢はピースボートで世界中に友達をつくり戦争をなくすこと
んんん、なんともロック。
話題の動画をまだ見ていない人のために埋め込んでおく。
ビートルズが初めて世に出た時も、こんな感じだったのかな?
補足として、父親である中村幸也氏も、元ヤン心理カウンセラーという
尖った肩書を持ちながら講演を行っている人物なので、
「父親の操り人形では?」との声も上がっているよう。
ただ、今回の記事の主題はあくまで「学校に行かないってどうなのよ」を
考えてみることにあるので、必要以上に勘繰り・叩きの要素を入れるつもりはない。
フェアに意見を吐くためにも、ゆたぼん君の紹介はここまで。
巷の意見は・・?
正直、この「不登校は不幸じゃない」という強烈なロックンロールについては、
色々な意見がありすぎて集約が面倒くさい。
あれこれかき集めて、ただのWikiっぽい記事にするのもなんか趣旨と違うしなぁ・・
とりあえず、肯定・否定派それぞれの意見をつまんでおく。
肯定派の声
堀江氏、小学校は「刑務所通わされてるようなもん」 – 芸能 : 日刊スポーツ▲はホリエモン氏の意見。一番、肯定理由が明確なように思える。
否定or中立派の声
肯定派は、「リスクを恐れる」スタンスへのアンチか、
行動力の評価、あるいは学校が下らないという事への同意。
真正面からの否定派は意外にも少なかったが、疑問を投げる声や
課題提起は多かった。
「否定はしないが突っ込みどころ多いよ」というスタンスの
人たちが一番多いのかな。
あと突っ込みの対象は、ゆたぼん君でなくて
どちらかというと親に向かっているイメージ。
あたりまえか。
別にいいんじゃない?
はい、ここからが書きたかったこと。
僕は前提として、「別に行かなくてもいいんじゃない?」と思っている。
答えはコレ一択。
学校ってつまるところ「社会的なリスクヘッジ」であって、
偏見の回避とか、職業選択の制限回避とか、社交性ゲットとかの
ための、将来への投資機能をもつ場所。
裏を返せば、投資しなくても死にはしないものだと僕は考える。
「学校に行かないデメリット」をちゃんと考えた上で、
親が方針として「行かなくてもいい」を打ち立てるのであれば、
それはもう、その家庭の選択。
この話って「わが子の可能性を信じる親」に対して、
「あまりに危険な賭けをしているように見える周囲」が
意見をぶつけている構造だから、たぶんずっと平行線だろうし。
であれば、宗教的対立のようなものだし、外野が
「人格攻撃」といった一定のラインを超える
アクションをとる必要はないんじゃないかな?と思う。
だから、諸々ひっくるめて「そういう生き方があってもいいんじゃない」。
ただ、この「いいんじゃない?」というスタンスには
法律違反という視点が欠けている無責任なものだけど。
YouTuber弁護士の藤吉修崇氏いわく、「親が法律違反している可能性がある」
「このまま活動させるのは弁護士としては危機感を覚える」と。
僕が言う「いいんじゃない?」は、あくまで選択肢の自由としての
「いいんじゃない?」なので、法的リスクは加味していない。
あとは、当たり前の話だけど、親の責任は「子供を信じた先」の
結末までついて回る。
もしも子供が「あの時学校に行っていれば」と後悔することがあっても、
その想いにちゃんと向き合ってあげられるかどうか。背負えるかどうか。
それも覚悟の上であれば、外野は見守るしかない。
そんなこんなで、「いいんじゃね≒家庭の方針による」という結論一択。
これだけだと、「ケースバイケース」並みのクソみたいな結論になるので、
もう少し踏み込んだ考えを次に書きたい。
僕だったら学校に行かせるけど
「行かせない」選択肢があってもいい、と僕は書いた。
それはあくまで中村家の生き方への、僕の眼差しの話。
ここからは、「もし僕が親だったら?」という意見にうつる。
もし自分の子供がゆたぼん君で、小学生のときに「学校に行きたくない。」
と言い始めても、恐らく認めはしない。
万が一いじめにあったとしたら、転校は検討しても、
学校からのドロップアウトはまず選択肢に入れない。
それほどまでに「学校で得られるもの」の価値は高いと思っている。
大きく、その理由は二つ挙げられる。
人付き合いの基礎が学べるから
友達のつくり方、けじめのつけ方、好きな子へのアプローチの仕方、
仲いいヤツ悪いヤツの判断、集団で生活する経験・・
これらの人付き合いの基礎が作れていることに勝る
人生のリスクヘッジはないと思う。
「偏見の回避」とかいろいろ書いたけど、
リスクヘッジとして一番大きいのはコレ。
もし「個」で勝負できるキャリア、
たとえばプログラマーだったりブロガーだったり
発明家だったり投資家だったり・・を全力で目指すなら、
「人付き合いの基礎」の必要性は下がるのかもしれない。
個のスキルを磨く時間が必要で、その時間の優先度に対して
学校で得られるリターンが少ない、という見方もあるかもしれない。
でも、考えてみてほしい。
たとえばゆたぼん君が目指しているもの・・
ピースボートで世界中に友達つくって戦争をなくすためには、
多分、不特定多数の人たちとの沢山のコミュニケーションが必要になる。
学校をちゃんと出て、サラリーマンをやって、ビジネスで上り詰めて・・みたいな、
メジャーな価値観の人たちの力も、選り好みせずに借りなきゃいけない時が
沢山あるんじゃないかな。
意見の衝突だって乗り越えないといけないだろう。
ピースボートに限らず、周りと連携しながら仕事をしたいと思ったら、
少なからず「身内以外とのコミュニケーション力」の土壌は必要だと思う。
「好きな人としか仕事してないぜ!選ぶ側だし」っていう天才もいるかもだが、
殆どの人はチームプレイをどこかしらで求められる。
「ほんの一握りの天才」じゃなかったときのリスクヘッジとして、
人付き合いの基礎は必要、、というのが理由のひとつ目。
予期せぬ体験が沢山できるから
学校は、不特定多数の人に囲まれて、かったるい規律があるからこそ、
恣意的に行動していては出会えないような偶発性も沢山ある。
たとえば「教師」なんていうのは子供たち(特に自由を求めるような)
にとって、ダルさの象徴だったりもするけど、
その教師のアドバイスで人生が変わることもある。
また、いくつもの偶発的な経験の中から「やりたくないこと」
「やりたいこと」を判断していくうちに、何が本当に下らなくて
何が本当にやりたいことかが見えてくることだってある。
小学生が好きなように生き方を判断をすると言っても、
まだまだ経験の母数が小さすぎると思う。
それこそ、「自由」という超便利な言葉を隠れ蓑に、ラクな方に流れてしまうか、
結局親の操り人形になるリスクの方が大きいのでは・・。
将来、「いや、これはやらない」「これをやりたい」を
フラットな目で判断できるためにも、子供の頃はやりたくないことも
含めて経験の母数を増やしておくべきだと思う。
リスクを恐れていては、という意見はあふれているけど、
「守破離」は世の中の本質。
イキナリ「離」に入る前に、「守」の精神で最低限の経験は
積んでおいた方がいいんでない?せめて中学生くらいまでは・・。
まとめ
さてさて色々書いてきたが、親は自分の子の可能性を信じたいものだし、
コレ以上は口をはさめない。
誰が何を言おうと、結末は何年後か、あるいはもっと後にしか分からない。
ココで書いたことが全て杞憂で、ゆたぼん君が戦争をなくすクラスの
超大物になっていることを期待して記事を締める。
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